4ヶ月ほど前になる。
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』を読んだ。
感想をいうことが難しいタイプの本だった。素直に楽しむことは正直難しかったが「ワイはこんな話を思いつかないからすごい」という角度で読んだ。

- 作者:カート ヴォネガットジュニア,伊藤 典夫
- 発売日: 2013/02/28
- メディア:Kindle版
この作品の鍵は「時間浮遊」である。
主人公のビリー・ピルグリムは、ある日突然時間を行き来するようになる。1946年から1967年に飛び、ドレスデン爆撃の様子から自分の診察室に戻ったかと思えば,未来から過去に戻ったりもする。つまりはむちゃくちゃだ。そういうものだ。
「ビリーは自分の意思で未来を変えようとしない」というのはネットで感想を探していたときに見つけた。言われてみれば確かにそうだった。
この物語は、トラルファマドール人の口で、自由意志を否定している。未来はもう一本の道として決まっているわけである。
正直、ヴォネガットがなぜこの物語を書きたかったのかわからないし、細かい話は研究者に任せる。自分の意見としては、物語の起承転結をぐちゃぐちゃにすることで、自分のドレスデンでの戦争体験(細かくいうと戦争後の生き残りの経験)を文章に変換させたかったんだろう、と思ってる。ようやく語る気になれたんだろう。
ヴォネガット自身は物語の起承転結は知っているし、短編はお手本のように綺麗だ。ヴォネガットの短編は結構好きだ。全部読んだ。
私の感覚では、この時間浮遊、自分の経験と似ているんじゃないかな、と思う。
「仕事中に初恋のことを思い出す現象」に。また似たようなものに「家のお風呂場で、あの日の授業のことを考える」現象。「あの時の俺はなんであんな子供だったのだろう」「家で仕事のことを考えて焦る自分」という、ある種のフラッシュバックと似ている。
そんな気がする。
急に小一のことを思い出したり、任意の誰かを想起したり,カレーが食いたいと思ったり…
記憶というものは、過去よりも不確かで、真実ではないことも入っているかもしれないが、現在の私の精神は、その時にタイムスリップしているのかもしれない。
私はたまたま未来を見据えることはできないが、過去の世界に飛ぶ、限定的なトラルファマドール星人なのかもしれない。いや、違うか。
(批評でよく見る、本の登場人物を指して、「実は私たちは〇〇かもしれない」という安直な結び付けはあまり好きではない。そういう書き方をしたんだけどね)
今日は有給休暇を用いて、三連休を生成し、実家に帰っている。
実家に帰って、ぽーっとしながら、リビングで横になっていると、自分が大学生だった頃に、まるでタイムスリップしている錯覚に陥るのである。
しかし、またすぐ日が明ける。私は働くことになる。そういうものだ。So it goes.